団扇・扇子
団扇・扇子の歴史
扇子の歴史
扇の由来
「扇」という漢字は本来軽い扉のことを意味し、そこから転じてうちわのことを言うようになった。うちわは紀元前の中国で用いられたという記録がある。また古代エジプトの壁画にも、王の脇に巨大な羽根うちわを掲げた従者が侍っている図があり、日本では利田遺跡(佐賀県)において、うちわの柄が出土した例がある。このようにうちわは文明発祥時から存在するが、木の薄板を重ねたり、また紙を折りたたんで製作する扇は日本で発明されたものである。
彩絵檜扇の誕生
平安時代、厳島神社蔵。扇を形作る檜の薄板全てに胡粉、さらに雲母を塗り、金銀の箔を散らして絵を描く。児童および婦人用の檜扇である。
最初に現れた扇は30cmほどの長さに2〜3cm幅の薄い檜の板を重ねて作る檜扇と呼ばれるもので、これは奈良時代から平安時代の初期にかけて世に現れたといわれる。紙は貼られておらず、その起りは一説には木簡を束ね一方の端に穴を開け、そこに紐などを通して縛ったものだという。また檜扇のそもそもの用途は開いて煽ぐものではなく、メモ帳として物を書きつけるものであった。のちに檜扇は冬の季節の扇とされた。(詳しくは檜扇の項参照)
蝙蝠扇の誕生
その後平安時代の中頃までに、5本または6本の細い骨に紙を貼った蝙蝠扇(かはほりあふぎ)が夏の扇として現れる。これが現在一般に見られる扇の原型であるが、このころの紙貼りの扇は扇面の裏側に骨が露出する形式であった。平安時代には扇はあおぐという役割だけでなく、儀礼や贈答、コミュニケーションの道具としても用いられた。具体的には和歌を書いて贈ったり、花を載せて贈ったりしたことが、源氏物語など、多くの文学作品や歴史書に書かれている。このように扇は涼をとったりもてあそび物にされる一方で、時代が下るにつれ儀礼の道具としても重んじられ、公家や武家また一般庶民の別なく、日常や冠婚葬祭での持ち物のひとつとされた。
かつての扇の利用方法
ほかには、宮中において2組に分かれて扇を持ち合い、その描かれた絵画や材質の優劣を競い合う扇合せという行事が円融天皇の天禄4年(973年)に行われたという記録がある。また近世には毎月一日、天皇が三種の神器が安置されている内侍所へ参拝する時の持ち物として、御月扇と称して月毎に末広の扇が絵所より新調されたが、そのほかに表面に古代中国の賢聖、裏面に金銀砂子に草花を描いた賢聖御末広という末広が献上されることもあった。
日本の扇はコンパクトに折り畳めるという利点が高く評価され、中国大陸には北宋の時代に、またその中国を経てヨーロッパにも輸出された。


提供:京都扇子団扇商工協同組合